«History1» イルカが棲み続ける海を次世代に遺せるように… ― 御蔵島バンドウイルカ研究会の始まり ―
イルカが棲み続ける海を次世代に遺せるように…
― 御蔵島バンドウイルカ研究会の始まり ―
文: 山口 ひろみ
イルカを求めて御蔵島へ初上陸
1990年代初め、日本では野生のイルカ・クジラとの出会うホエールウォッチングは始まったばかりの頃でした。岩谷が話す、アイサーチの活動がスタートした頃のエネルギッシュな話は、今、活動する私たちにとっても、刺激的なものでした。
その中から御蔵島でのイルカの個体識別調査開始当時のエピソードをご紹介します。
アイサーチ・ジャパン設立後、岩谷(宇津)孝子は、パートナーの故宇津孝さん(自然写真家)と、御蔵島にハーミットドルフィン(群れを離れて単独行動しているイルカのこと。人に対して友好的なものが多い。)がいるという噂を聞き、行ってみることにしました。
さっそく御蔵島村役場に電話をかけたものの、島には泊まるところがないからと初めは行くことを断られていました。しかし、役場のある人が漁協組合長の栗本道雄氏(現 民宿鉄砲場オーナー)を紹介。彼は、以前宿を経営していた栗本よし子氏を紹介してくれました。彼女は、懇願する岩谷らに対して「物置しかないけど…」と言って、彼女の家に泊めてくれることになり、ようやく御蔵島に上陸することができました。
島の人たちはイルカを見に来たこの2人の客を珍しがり、「イルカ女・イルカ男」と呼びました。島の人にとって、イルカは玉石と同じ。そこにいて当たり前の存在だったのです。
早速、海の中へビデオを持って入ってみると、たくさんのイルカが興味深そうにやってきました。しばらく観察していると、イルカたちの区別がつくんじゃないか?と思いつきました。これが、御蔵島周辺のミナミハンドウイルカの個体識別調査活動へとつながる第一歩となりました。
今まで観光客の来なかった御蔵島。だからこそ、その周辺に生息するイルカたちの生活がある程度わかってから、人が入っていくべきだと思いました。日本でイルカが観光資源となる前に、イルカが棲み続ける海を次世代に遺せるように…。1992年のことでした。
島の人たちの思い
御蔵島の村民の4分の3がツゲを栽培し生計を立てていました。〝お祖父ちゃんが植えたツゲはお父さんが育て、自分が出荷する。そして、自分は100年後に出荷できるように苗木を植える。〞5世代が自分と関わって今を生きている…島の人たちはそんな世界観を持っていました。
「御蔵島のイルカのことがよくわかっていないままで、イルカと泳ぐためにたくさんの人が殺到した時、イルカはこの島に棲み続けられるでしょうか?」そんなアイサーチの声は彼らの世界観に共鳴したのです。「イルカがいなくなったら、ご先祖様に申し訳ねえ」
個体識別調査を始める
個体識別調査開始から10 年間、島から年間100万円の予算を提供いただきました。その資金は調査員が滞在する家の家賃、船代、燃料代など島での調査費用に充てられました。アイサーチで募集した調査員のボランティアは、自分たちの食費や旅費を自己負担し、夏の間は現地で水中撮影等を行いました。そして、秋からは東京のアイサーチ事務所で、夏に撮りためたイルカの動画を地道に分析していきました。
初年度はWWFJ(公益財団法人 世界自然保護基金ジャパン)の助成金をいただきました。それに際し、大隅清治先生、神谷敏郎先生、村山司先生に推薦状を書いていただきました。森恭一先生には、報告書等のご指導をいただきました。また、個体識別調査の方法はキャサリン・ダジンスキー博士がご指導くださり、WWFJの小森繁樹氏は実際に調査を視察し、アドバイスをくださいました。素人だらけの集団でしたが、自分の利益ではなく、人類の未来を考えての行動だったことが伝わったのでしょうか。多くの方々に助けられ、個体識別調査は始まりました。こうして1994年に始まった調査は2003年まで続き、現在では御蔵島観光協会がこの調査を継続して下さっています。
無謀ともいえる挑戦でしたが、人に思いが届き、思いが広がり、実現しました。調査を続けていくことは困難も多くありましたが、この活動の軌跡は今の私たちに勇気を与えてくれるものでした。
※この記事は、FLIPPER 2016 winter号 5~6ページより抜粋しています。